2024年1月29日月曜日

事業報告29 よりあい塾「郷土の歴史」

 ●1月25日(木曜日) 10:00~11:30

 今年度最後の「よりあい塾(成人~高齢者対象)」が開催されました。今冬一番の寒波の到来で寒い日でしたが、21名の参加がありました。

 講師は、福岡市埋蔵文化財センターの運営係の常松先生です。埋蔵文化財センターのバックヤードの話や今までかかわってこられた文化財のことについて分かりやすく、また、楽しくお話を進めていただきました。国宝の金印のお話では、「金印は全国的にとても人気があり、貸し出しをする時などは新幹線のグリーン車で移動することができます。また、レプリカは年間300個以上売れています。時には、金印を発見しましたと問い合わせがあり、調べてみましたが、すべてレプリカでした。」など、「なるほど」と得した気分になるような内容ばかりでした。

 今回は「花畑校区に見る元寇の足跡」と題して、次のような内容のお話をしていただきました。

 ①今年は「文永の役」から750年の節目の年に当たり、元寇防塁についての基礎的なお話をします。    

 ②花畑校区は元寇とあまり関連がないと思われるかもしれませんが、元寇恩賞地が近隣にあることが発掘調査で明らかになりました。

 ③今年は年明け早々地震による災害が生じました。古文書や発掘調査にみる災害の歴史についてお話します。


 すべての内容をご紹介することはできませんが、各項目についてスポットでご紹介します。

 ①元寇について

 最初に、蒙古軍が襲来した時の船の碇に使われた石が、福岡市や九州北部の地に日常的に見ることができるとのお話でした。一つの石の重さは500kg以上あり、この碇の大きさから船も相当大きかったことが想像されるということでした。
 文永11(1274)年の蒙古襲来(文永の役)の後に鎌倉幕府の命により、九州各国の分担で博多湾岸に総延長約20㎞にわたって高さ2~3mの石築地(いしついじ)が築造されました。のちにこれを「元寇防塁」と呼ぶようになりました。
 上の「蒙古襲来絵詞」を歴史の教科書で見られた方もおられるのではないかと思います。この場所は、現在の城南区鳥飼3丁目の「埴安神社」付近ということです。ちょっと見にくいですが、上の写真の馬の後ろ足付近に松の木があります。今から、100年くらい前まではその松の木の根っこが残っていたそうです。

 歴史を学んでいる頃は何気なく見ていた写真ですが、その現場が、今、私たちが住んでいる身近にあったと思うと、改めて歴史の重みを感じることができるのではないでしょうか。また、現在は映像で世の中の色々な出来事を知ることができますが、昔は上の写真のように絵を書いていろいろな出来事を知らしめて(報告)いたそうです。この絵も鎌倉幕府に報告され、地元の御家人達が奮闘した様子を伝えたということです。その結果、次に紹介する恩賞地が分配されたということです。

②元寇恩賞地について

 元寇恩賞地ー「柏原KML遺跡」ー  

 ・鎌倉幕府は、公安の役で戦死した渋谷有重の子孫に比伊郷地頭職を配分した。

 ・地頭職配分:田畑10町、屋敷4か所、畠4か所

 ・K遺跡の小字「ゴソ」は「御所」で屋敷を意味する。

 ・方形区画Ⅰ・Ⅱに囲まれた建物は、屋敷2か所に相当する。

  柏原K遺跡は、今の太平寺付近にあったそうで、中国から輸入された土器も発見されています。全国的にも元寇恩賞地としてはっきり残っている遺跡は珍しいそうです。当日は、発掘された土器も持参していただき、参加者は700年前にタイムスリップして、当時の人たちの生活ぶりを想像しておられました。

③古文書や発掘調査にみる災害の歴史について
 元旦に起きた能登半島地震をうけて、急遽内容を追加されました。
 記録に残る日本最古の地震は、日本書紀の中に「なゐふる」(地震)として、416年7月14日に起こったとだけ記録されているそうです。発掘調査をしていても断層がずれて、遺跡が壊れており、地震の影響だとわかるそうです。古文書の中にも貞観地震(869)、享徳地震(1454)、慶長三陸地震(1611)、など日本列島は地震の災害を乗り越えて歴史をつないできていることが分かります。いつ・どこで地震が起こってもおかしくないことを私たちは改めて認識しなければならないと、先生の説明を聞きながら思いました。
 
 最後は質問タイムで終わりましたが、講演後も先生に詳しく聞きたい方が複数おられ、その方々にも丁寧に説明していただきました。歴史を学ぶ楽しさ、想像することによって心が豊かになることを教えていただいた気がします。ありがとうございました。心よりお礼申し上げます。             END